剣道講話

剣道の理念について




日時:昭和56年(1981)6月28日
場所:神奈川県立武道館

編集発行:小島甲子治
普及版(A4判28頁) kouwarinenpdf.pdf へのリンク

剣道指導の心構え

(竹刀の本意)
剣道の正しい伝承と発展のために剣の理法に基づく竹刀の扱い方の指導に努める。
剣道は、竹刀による「心気力一致」を目指し、自己を創造していく道である。「竹刀という剣」は、相手に向ける剣であると同時に自分に向けられた剣でもある。この修錬を通じて竹刀と心身の一体化を図ることを指導の要点とする。

(礼法)
相手の人格を尊重し、心豊かな人間の育成のために礼法を重んずる指導に努める。
剣道は、勝負の場においても「礼節を尊ぶ(とうとぶ)」ことを重視する。お互いを敬う(うやまう)心と形(かたち)の礼法指導によって、節度ある生活態度を身につけ、「交剣知愛(こうけんちあい)」の輪を広げていくことを指導の要点とする。

(生涯剣道)
ともに剣道を学び、安全・健康に留意しつつ、生涯にわたる人間形成の道を見出す指導に努める。
剣道は、世代を超えて学び合う道である。「技」を通じて「道」を求め、社会の活力を高めながら、豊かな生命観を育み(はぐくみ)、文化としての剣道を実践(じっせん)していくことを指導の目標とする。

             平成19年3月14日制定
財団法人 全日本剣道連盟

(ふりがなは小生追加)


目 次
              はじめに             頁 (A4判 頁)
1 理念の成り立ち‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥4 (1)
2 剣道の「剣」について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥5 (2)
3 剣道の「道」について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥6 (2)
4 剣の「理法」について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥8 (3)
5 理法には心と事(わざ=技)がある‥‥‥‥‥9 (3)
6 理(心)の修行について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥11 (5)
7 島田虎之助に男谷師匠あり‥‥‥‥‥‥‥‥‥16 (7)
8 剣道の基礎は切り返しの最後の一本だ‥‥‥‥20 (8)
9 事(わざ=技)の修行について‥‥‥‥‥‥‥24 (11)
10 形のすすめ‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥26 (11)
11 稽古力(けいこぢから)をつける‥‥‥‥‥‥29 (13)
12 呼吸法(数息観)について‥‥‥‥‥‥‥‥‥31 (14)
13 応無所住而生其心について…‥‥‥‥‥‥‥‥33 (15)
14 直心是道場について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥35 (15)
15 事理一致について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥39 (17)
16 人間形成について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥44 (19)
17 三磨の位について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥45 (20)
18 社会形成について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥46 (20)
19 猫の妙術について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥48 (21)
20 「道」の定義について‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥52 (23)
21 日常生活における三箇条について‥‥‥‥‥‥53 (24)
  噫 小川忠太郎先生(森島健男先生)
  あとがき

はじめに

 小生は、昭和56年(1981)6月28日(日)(神奈川県立武道館)において、範士九段小川忠太郎先生の講話「剣道の理念について」を聴いて、大きな感動を受けました。小生弱冠34歳の時でした。
 そこで、この貴重な講話をより多くの剣士に伝えようと、テープ起こしから日比谷図書館などに行って仏教教本などを調べたりしました。
 仕事、家事、剣道指導の合間をぬい、ようやく原稿が出来上がったのが、昭和57年の2月でした。
 しかし、まだなお不明な点が多いことなどから、当該講話は世に出ることはありませんでした。
 その後、小川忠太郎先生は、平成4年1月29日、心不全のため、ご自宅において逝去(享年91歳)されました。 神奈川県立武道館での講話から10年が経過しておりました。それから、更に17年の歳月が流れ、平成21年5月に愛妻が病(癌)により、65才の若さで他界しました。 人生の伴侶を亡くした深い悲しみの中、家財を整理していたら、捨てるに捨てられないで保管していた私の青春時代の宝物・手書きの講話録に再会したのです。
 再度、原稿を読み返したり、録音テープを繰り返し聴いていると、63歳になった今でも、八段に挑戦している小生に、当時の小川先生の姿と熱いメッセージが津々(しんしん)とよみがえってきました。
 やがて、小川先生のこの熱い思いを、どうしても多くの剣士に伝えたいと思うようになり、この講話録を再編集して世に送り出そうと考えました。
 小川先生の講話録は、既に「剣道養心館創立十周年記念誌」(昭和56年3月講話)として、また、「体育とスポーツ出版社」から「剣道時代」、「剣道講話」(平成5年5月刊)などとして、それぞれ発行されていますが、それとは趣(おもむき)が異なり、先生の人柄、情熱、力強いメッセージを伝えるには、当時の講話をその(発言の)まま伝えることが必要と考え、再編集を試みました。
 小川先生の口述をできるだけ忠実に記述したつもりですが、聞き取れなかったところ、又発音を意味の違う文字で記述している場合があるかもしれません。口述(発音)を記録するという困難さをご理解いただければと思います。また、現代の読者・若者にも解りやすくする必要を感じたことから、僭越(せんえつ)ながら、・見出し(タイトル)は小生の判断で付けました。
・( )内は小川先生の発音どおりの記述したもの、又は小生の若干の補足説明を加えました。
・【注釈】は参考にした書籍等からの引用などの他、小生の剣道修行47年間の知識・経験に基づいた解釈や説明を加えました。
 この講話録が、多くの剣士に読まれ、剣道理念の実践に少しでも役立てれば幸いです。

剣道の理念について

範士九段 小川忠太郎先生

<経歴>
【明治三十四年(1901年)一月十日埼玉県熊谷市に生まれる。剣道修行を志して上京し、高野佐三郎、斎村五郎、大島治喜太、中山博道、持田盛二の各先生に師事。昭和十六年国士舘専門学校剣道主任教授となる。臨済正宗釈宗活老師(両忘協会)より刀耕の道 【防具を担いで日本武道館に向かう小川先生】 号、無得庵の庵号を受ける。小野派一刀流第十六代笹森順造先生に一刀流を学び免許皆伝。戦後は警視庁(昭和二十八年)に入り主席師範(昭和四十二年)、名誉師範(昭和四十五年)を勤める。昭和三十五年剣道範士(五十九歳)、昭和四十六年剣道九段(七十歳)を授与。全日本剣道連盟の審議員(昭和四十五年)、理念委員(昭和四十六年~五十年)、日本剣道形解説書作成委員(昭和五十六年)、相談役(昭和五十六年)を勤めた。特に「剣道の理念について」と題して各地で講話を行い、多くの受講者に感動を与えた。

著書に「剣道講話」、「不動智神妙録」、「剣と道」、「百回稽古」など。平成四年(1992)一月二十九日没。享年九十一歳。】
(写真及び経歴は「月刊 剣道時代」提供)


1 理念の成り立ち
 私もこの指導理念の委員をやったんですが、
【注釈】昭和四十六年十二月剣道理念委員会(委員長 松本敏夫、委員小川忠太郎、井上正孝、大島功、中野八十二、湯野正憲、小川政之、笠原利章、玉利嘉章、広光秀国、堀口清の十一名)を設け、作成に当たった。昭和五十年三月二十日の理事会、評議員会にて可決成立した。(「五十年史」より)
これを作るのに三年かかった。その前は、戦後ですから剣道の見方がね、「しない競技」のような面もあるし、もう混乱しておったんです。
【注釈】しない競技:昭和二十五年三月誕生、「撓(しない)は外部を白の布地袋にて包み(袋撓(ふくろじない))長さ三尺九寸(百十八.十八センチ)まで、重さ八十匁(もんめ)(三百グラム)以上とする。有効得点は鍔(つば)より先の部分で打突したものに限る。」(「剣道の歴史」より)
どうしても指導理念を作らなければならないような時期にきて作ったんでありまして、これが今後の剣道の方向になる。
 この中にはね。木村名誉会長(全日本剣道連盟は昭和二十七年十月に発足:初代会長木村篤太郎(とくたろう))も非常に心配して是非これを入れてくれと言ったのが「旺盛な気力」、それから「信義」これを入れてもらいたいと言った。それで、これは「剣道修錬の心構え」の方へ入れ、それから石田会長(石田和外(かずと):昭和四十九年三月全剣連二代目会長就任)は、「誠」ということと「修錬」ということ、この二つを入れてくれ、で、これを入れまして「修錬」という方は「剣道の理念」の方へ入れて、「誠」の方は「修錬の心構え」へ入れた。ね、
 今後のことを心配してね、その後、木村先生でも石田先生でも非常に心配して、そういうものを持っていた。ですから、それは、単なる、ね、頭で考えてこう作った理屈ではないん。ね、木村先生はその時九十才ですよ。そういうことで出来たんでありましてね。この中にはね、もう日本の剣道を良くしようというこの精神が脈々として入っている。そういうものがありますから、皆さんはこの「剣道の理念」をよーく考えて。ね、そうして、これを理念だけでなく、実際にやってもらいたいと思うんです。ね、そうすると、理念にあるように人間形成ができるん。ね、ま、成り立ちはそういうことがありますが、この理念の説明としましてね。

2 剣道の「剣」について
 「剣道は剣の理法の修錬による人間形成の道である」、文句は至極簡単これだけです。先ず、剣道ということですけれども、これが色々問題になった。ね、それで、私が最初に剣道の「剣」の字、ね、これは日本刀、今やっている剣道は三尺八寸か九寸の竹刀(ちくとう)でしょ。この竹刀(ちくとう)を日本刀という観念で使うのか、戦後一時アメリカから(剣道を)中止されたために行われたところの、「しない競技」ね、あれは袋竹刀で刀(かたな)(かたな)じゃない。だから、どこで打っても良いんですよ、ね、刀じゃないん。だからそういう観念で使うのか、これを決めようと言うんで、最初は私がこれを出した。一番の問題がこれであった。ね、それで、やれスポーツだとか、なんだとか、かんだとかやっておった。ところがこの一番の問題がね、三年かかったうちで最初一時間で決まっちゃたですよ。もう皆んな日本刀という観念で使ったり、ほとんど全員が賛成して、これが決定。これが大事なところなん。ね、剣道から剣を取ってしまえば、これは剣道じゃないですよ。単なる道なん、ね、そんな漠然(ばくぜん)とした道なんてというものありゃしない。剣を入れて初めて剣道。茶道だって、ね、お茶のお点前(おてまえ)があるから茶道なん、お茶を取ったら茶道じゃありゃしない。書道だってそう。ね、皆んなそこに特徴がある。剣道というから剣を取ったら剣道じゃない。ただ剣道は精神だ、精神だと言ったって、それじゃ駄目なんです。ね、剣を離れたらだよ。それでこれは、剣道では抜くことの出来ない剣。

3 剣道の「道」について
 それから「道」でありますけれども、剣と言っても、私の子供の時には剣術と言っていましたよ。ね、あるいは、撃剣(げっけん)と言っておった。剣道と言うようになったのは大正に入ってからです。西久保弘道(にしくぼこうどう)という方が、武専(ぶせん)の校長になってね、
【注釈】武専:武道専門学校とは、大日本武徳会(明治28年 - 昭和21年)が武道指導者を養成する旧制専門学校として、現在の京都府京都市左京区に大正元年に設立した。当初は武術専門学校であったが、西久保弘道が校長になって大正八年八月に武道専門学校と改称した。この時から「撃剣・剣術」の名称は、「剣道」に改められた。武専の剣道は激しい稽古で知られており、今ではほとんど見られることのない足払いや足搦み、組み討ち、体が反り返るほどの迎え突きなど普通であった。また、それまでの悪癖を除くため一年生は切り返し、二年生は切り返しと懸かり稽古のみで、地稽古はやっと三年生・四年生になってからであった。切り返しも気を抜けば迎え突き、足払いありの現在の剣道の稽古からは想像出来ないほどの厳しいものであった。さらに寒稽古では全員が切り返し・懸かり稽古など徹底した基礎作りを行っており、試合技術を身に着ける試合実績を出すための稽古ではなく、真に地力をつけることに特化した「強い剣道」をめざした稽古であった。昭和二十一年、連合国軍最高司令官総司令部により廃校となる。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
その前は武術専門学校だった。ね、剣道、柔道は「術じゃない道だ」と人間を造る道だというので、武道専門学校と名前を変えた。これは大正七年(正しくは大正八年)かもしれない。ね、それで今度は道(どう)ということになったんですね。人間を造る道(みち)になった。これが大事なん。ね、それで剣道で大事なのは「剣」(けん)ということと「道」(どう)ということ。この二つなん。これを一つ最初に頭に入れてもらいたい。ね、

4 剣の「理法」について
 そういう剣道は、ね、剣の理法の修錬、理法ね、ただ、でたらめに竹刀を振り回しているんじゃない。ね、簡単に言えば術ですね。この修錬、理法というのは、どういう事であるかと言うと。
 理法の根源は、ね、これは自然ということ、人間が造ったものじゃない。ね、人間が造ったもんなら、もっと上もある。競争相手はね、また変えることも出来る。けれども理法の極致(きょくち)(到達することのできる最高の境地)の自然までいったらばね、これは人間が変えようたって変えることが出来ないん。
 これが道(みち)なん。天地自然の道、人間はこれには従わなければならない。ね、この理法は、自然は、地球上に人間がおらなくてもこれはある。人間が一人いなくたって春になれば花が咲く、秋になりゃ葉は落ちる。ね、これが自然なん。だから、剣の理法は自然の理法。この自然という二字を上に置いてね。その理法なん。それだからこれは難しいもんじゃない。頭がいいから自然の理法が解るかというとそんなもんじゃない。関係ありゃせん。じゃ悪けりゃいいかっていうと、そうじゃ関係ない。ね、人間の頭に関係ありゃしない。ね、そういうものに関係なく、ね、人間関係だけで言えば、人間誰でも生まれながらに持っている。ね、自然の理法によってこの世に生まれて、自然の理法によって生活している。ね、自然の理法によって又、帰(死)する。これ人間、ね、これが理法なん。

5 理法には心と事(わざ)(わざ=技)がある
 それで、これを理法を、理法と読むのは一つでありますけれども、ね、話をするに解りやすいように、これを二つに分ける。理法の「理」の字ね、理、これは「心」、理法のこれは「心」、理は心。ね、
【注釈】心は誰しもが持っているが、誰にも見えないもので、それも、時、場所によってカメレオンの如く変化する得体の知れないものである。特に剣道においては、勇気、集中力、無心(一心)、気迫・気力・気勢、恐懼疑惑(きょうくぎわく)や雑念のない心、不動心、平常心、明鏡止水(めいきょうしすい)などの精神作用が求められる。人生においても、「ものの見方」、「考え方」、「生き方」など、その場その場に応じて、正しい心の持ち方・判断が出来るように修行(学業、職業、家業)しなければならない。
もう一つは、事(わざ)(わざ=技)(手足や体、竹刀が自由自在に働くように修行する。)。理法をこの二つに分けてお話しします。
【注釈】(理法とは、狭義的(きょうぎてき)には「理合」のことですが、広義的(こうぎてき)には「心法」、「刀法=技法」、「身法=体法」があることを言っています。これは気剣体の一致や有効打突(心法は充実した気勢、刀法は正確な打突、身法は適正な姿勢)に繋がってきます。)
沢庵(たくあん)が不動智神妙録(ふどうちしんみょうろく)で「理(り)の修行、事(わざ)(わざ=技)の修行」という。
【注釈1】(ふどうちしんみょうろく)(沢庵宗彭(たくあんそうほう)(1573~1645)が、禅を通じて当時の徳川家に仕えた柳生新陰流の剣の達人、柳生但馬守宗矩(やぎゅうたじまのかみむねのり)に剣禅一如(けんぜんいちにょ)(剣道と禅は、心の修行において同じである。剣道は稽古という行から道に進み、禅は座禅という行から道に進むことは、同じである。)を説いた教訓の書。草木や瓦石のように仏性(ぶっしょう)がない、動かないという意味ではなく、心があらゆる方向に自由自在に動きながら、少しも執着して止まることがないのを「不動智」と呼ぶのである。また、沢庵は、千手観音(せんじゅかんのん)を例に挙げて「不動智」について説明している。千手観音には、弓を取る手や、剣を持つ手など、さまざまな手があるが、弓を取る手に心が止まれば、残りの九百九十九の手は役に立たない。どの手にも心を止めないから、すべての手を自由に使える。つまり、千本の手は、それぞれ別々の手ではなく、心が自由に働けば、手があらゆる働きをするということを現している。さらに、心の修行を説きながらも、事(わざ)(わざ=技)の修錬の重要性を強調した書である。)
【注釈2】理(心)の修行を積んでも事(技)の修行をしなければ手足を思うように働かせない。逆に太刀の扱いがどんなに上手でも、理の行きつくところを知らなければ技を生かすことが出来ない。よって二つ揃っていなくては役に立たないこと。(「沢庵 不動智神妙録 池田諭訳」他より)

理の修行というのはね、心の修行を初心からもう完全なところまでいっている。完全なものは初心と一緒になる。ね、これが理の修行、これを説いている。しかし、その理の修行だけでは剣道としては完全じゃない。ね、いくら理ばかり解っても事(わざ)(わざ=技)が出来なければ駄目。不動智神妙録は、柳生但馬守(やぎゅうたじまかみ)に書いてやった極意ですから、ね、この事(わざ)(わざ=技)のことを柳生流なら三学円)(さんがくえん)とか、九箇(くか)とかそういう色々の組太刀(勢法(かた))がある。太刀がある。勢法(かた)(=形:命がけの真剣勝負の場で心法・刀法(=技法)・身法(=体法)の三位一体となった働きを体得するための勢法(=形=型)が各流祖によって開発された。)がある。これが事(わざ)(わざ=技)だ。これが出来なきゃだめ。ね、それで「理(り)」と「事(わざ)(わざ=技)」は車の両輪、鳥の双翼(そうよく)のようなもん。切り離すことは出来ない。ね、こういうふうに簡単に書いてあって、理(り)と事(わざ)の違いはそれでおしまいなん。(事理一致(じりいっち)=技と心が一体化していること。)
 不動智神妙録というのは、これはまあ、沢庵が自分が、もう、ね、本当なものを持っておって、ね、極、簡単に話たんですが、今日はこの理(り)と事(わざ)(わざ=技)の関係をね、もっと細かく分けて皆さんにお話しします。

6 理(心)の修行について
 「理」というのは、「心」なん。ね、世間で、もう、今、もうもう揺れていますね。世界中が揺れている。揺れておったって、よーく考えてみれば、何が揺れているか。その元は人間。そうでしょ。ね、人間の元は何か。人間の元は「心」なん。人間の心がこう揺れているだけなん。ね、その中で、やれ、落ち着けないとか、やれ何だとかと、うようよしている。問題は「心」なん。ね、だから心さえ極めればね、あらゆる一切の問題は解決する。
 根源が「心」なん。人間の心がこう現れている。その心を、ね、先ず第一に修行する。ところがこの「心」というものが、考えないと、一体何だろう。ね、どんなもんだろう。見当もつかないけどね。大事なところはね、心というものは人間は生まれながらに完全に備えている。これが一番大事。これを白隠(はくいん)(臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧である。著書に「坐禅和讃(ざぜんわさん)」がある。)というお坊さんは「衆生(しゅじょう)本来(ほんらい)仏(ほとけ)なり」(衆生と仏、一般の人と仏は一つである。現代訳すれば→「人」は、本来、「仏」なのです「氷」と「水」の関係のように、水を離れて氷がないように、「人」の心の中以外に「仏」はありません、「仏」は「人」の心の中に存在してるのです。)
一切の人間はそのまんま仏なん。ね、「座禅和讃」(座禅和讃は、江戸時代中期に活躍した僧侶・白隠禅師が著述したもので、大変深い内容を持つ和文で書かれたお経。)のまっぱじめに書いてある。「衆生本来仏(しゅじょうほんらいほとけ)なり」ね、誰でもそうなん。修行なんかしなくも、生まれたまんま、そのまんま完全だ。この心というもんはそういうもんなん。これをとっぱずしてしまうから後、ワーッと解かんなくなっちまう。ね、ここは大事な所なん。
 道元(どうげん)(鎌倉時代初期の禅僧。日本曹洞宗の開祖。)という曹洞宗の偉いお坊さんは「道(みち)は本円通(もとえんつう)、丸く通ずる 争(いか)でか修証(しゅうしょう)を仮(か)らん」、(訳:そもそも仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており、我々が修行したり、悟り証(さとりあか)したりすることもないはずである。「普勧坐禅儀」より)修行も悟りもそんなもの。いりゃしない。本円通、こういうもんだ。道というものはそういうもんだ。ね、ここがすっかり腹に入らないとね。これが根本問題。それじゃ、修行なんかしなくてもいいかという問題になるんだが、そのままで行けばいい訳だけどね、人間には、人間はものを考えるように出来ている。ぼんやりと何かを考えている。ところが、その考える方向が狂ってくると大変なものになる。ね、それで多くの人が自分の眼を外へ向ける。ね、外へ向けて、そして、だんだん外へ向けていくと外と対立になってしまう。対立になるとそこへ、変なもやもやが出来てくる。ね、争いとなったり、色々なもやもやが出来ちゃって、この・・、分かんなくなってくる。ここが大事な所なん。外へ向けないで内へ向ける事なん。ね、考えを外へ向けないで、自分の内へ向ける。これが修行。ね、放っておくと外にいくんですよ。これを剣道でいうと、立ち上がりすぐ打ちたくなるもの。ね、相手を見て打ちたくなる。そう出来ているん。そうすると、打ちたい、打ちたいということでデタラメになっちゃう。ね、打ちたいといった時は、「衆生本来仏なり」という完全な自分というものから離れちゃっている。ね、自分を見失っちまっている。それで、先ず自分を見失なわないでね、自分というものをちゃんと自信を持って立てる人間にらならなくちゃいけない。これが最初の修行、「理」の修行だ。
 まっ、少し、よその話をすると自分の自信がなくなるとね。社会生活で自分の自信がなくなると、もう迷ってきて、ね、何でもかんでも頭で解決しようと思うから分かんなくなっちゃう。夏目漱石という人は、あれは文豪ですよ。
【注釈1】(なつめ そうせき、慶応3年1月5日(1867年2月9日) - 大正5年(1916年)12月9日)は、日本の小説家、評論家、英文学者。本名、夏目 金之助(なつめ きんのすけ)。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
【注釈2】○漱石の「こころ」について
私は、心を研究しようと思い立ち、まず初めに夏目漱石の「こころ」から始めることにした。というのは、夏目漱石自身が自信を持って「人間の心を研究する者はこの小説を読め」と指摘しているからである。
・・・・・・この小説では、具体的な欲としてお金によるもの、愛欲によるものとを挙げ、それによる心の動きと行動を詳細に書いている。そして、その描写は読んでいる人の心をも書いているようでさえあった。人間の欲と言えば、その他に飲食欲、名誉欲等があるが、「人の行動を規定している心は、いざという危機(又は欲が働いたとき)にどう動くかによってその人が善人であるか、悪人であるかを決定づけるものである。」・・・・と言っている。
 実を言うと、私も人間の心はその人の行動を現すものであると信じている。従って、その人の行動を見れば心がそうであったとして判断され、見通されるのです。言葉よりも行動がより心を表現しているからです。もちろん私は人の心を見通すことを研究しようというのでは毛頭ない。「剣は心なり」という「剣心」とは、「正しい心」とは、剣道人(家)としてどう捉えるべきなのか。どういう意味を内包しているのかを理解しておきたかったからである。
(以上、昭和56年11月22日記)
(「私と剣道指導 剣心とは何か」小島甲子治より)

あれだけの大文豪でも自分自身がどうにもならない。「三四郎」それから「門」、「門」の終わりの方に書いてあります。十日間、鎌倉の円覚寺、ね、そうして坊さんに色々なことを聞いたら、問題を出された。「なーに、その問題、座禅を組んでやらなければだめだ」と言われた。
 何、問題なんか、頭で考えたっていいじゃないか。ね、こたつの中に入って考えたっていいんだ。そういう式で、頭で考えたら、益々解らなくなった。それで諦(あきら)めてね。家(うち)に帰る。で、自分は到底そういう人生の大問題、こういう心ということの大問題は自分では解決できない。ね、こう書いてありますがね、だから、この智恵ではだめなん。考えて、これを解決するには何か。これは行(ぎょう)(ぎょう=剣道では稽古のこと。)より他、仕方がない。ね、行(ぎょう)によって解決する。
 剣道は、そのうちの一つの行(ぎょう)なん。だから剣道ではこれが(こころ)が解決できる。
 ところが修行をね、ただ稽古をやったって駄目ですよ。ただ稽古をやって、当てっこだ、試合に勝つことが目標だ。ね、段をもらうのが目標だ。そんな稽古をやっておったら、これと関係ありゃせん。ね、だからこっち(心)へ行くには、先ず最初、そういう道があるということを聞かなきゃだめなん。最初は話ですよ。耳で聞くんね。ほいで、こいで相手は何、誰に聞くんだ。先生に聞くん。ね、だから先生が本当の先生でないとおかしなことになる。ここは大事。聞くのは誰に聞くん。ね、ほいで、師匠を選ぶということが非常に大事。ちょっとでも抜けた(卓越した)人で師匠に悪い人はない。

7 島田虎之助に男谷師匠あり
 幕末に島田虎之助。ね、四十才(正しくは三十八才)
【注釈】しまだ とらのすけ、文化11年4月3日(1814年5月22日) - 嘉永5年9月16日(1852年10月28日))は幕末の剣客。名は直親。号は峴山。男谷信友、大石進とならび幕末の三剣士といわれた。直心影流島田派を名乗った。虎之助は剣術以外に儒教や禅を好んで学び、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉が知られている。
(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)

で亡くなっている。で、心の問題をね、「それ、剣は心なり、心正しかざれば、剣また正しかからず、すべからく剣を学ばんと欲(ほっ)する者は、まず心より学べ」ね、これは今でもその通りですよ。四十才で亡くなった。それだけのことが言えるのは、それは師匠なん。師匠が男谷(おたに)(信友(のぶとも))下総守(しもおさのかみ)、
【注釈】通称、男谷精一郎:幕末の幕臣、剣客。直心影流男谷派を名乗った。門下から、島田虎之助、榊原鍵吉などの名剣士が輩出した。その実力の高さから「幕末の剣聖」と呼ばれることもある。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
ね、これに付いた。二十才(はたち)前後九州で有名だった。ところが、江戸へ出て、最初、男谷先生の所に行ったらしいね。それから、今度、井上伝兵衛という人の所へ行った。だから井上伝兵衛という人は、これは偉い人だと思ってね、「どうか弟子にしてくれ」、そうしたら井上伝兵衛が、「あなたの腕はいい。それだけの素質を持っておってね、江戸では偉い先生がおるから、わしなんかに付かないで、ね、亀沢町の男谷下総守」。そうしたら、「いや、もう二、三日前に行ったけどたいした先生じゃないですよ。」ね、そんだから、井上伝兵衛が、ね、「男谷先生は立派な人だからな、あなたがやったって、もう、その程度でやったんだ。私が伝書を書くから、伝書を出す、行ってみろ」。ほいで、井上伝兵衛から伝書を貰って行った。ね、そうしてやってみたら手も足も出ない。ね、それで男谷先生に入門する。
 ところが、島田虎之助は稽古さえやっていればいいと思った。ね、そうしたらば、男谷先生が「剣道は心だ。ね、学問をしなければだめだ」。男谷先生に言われて四書五経(ししょごきょう)
【注釈】ししょごきょう:とは、儒教の経書の中で特に重要とされる四書と五経の総称。四書は「論語」「大学」「中庸」「孟子」、五経は「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」をいう。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
をやった。
 孔孟の学問をね(孔孟とは、孔子・孟子のことで、孔孟の書は、江戸時代の武士階級の青少年の心の学問として主要なる教科書であった。)。それで、なんだ剣道の極意なんていうものは、孔孟の学問でいいんじゃないか。ね、それで「島田の君子剣」(活人剣(本来、人を殺傷する目的のための刀剣が、使い方によって人を活かすものとしてはたらくこと。)を君子剣といい、殺人剣(人を殺すために使う剣。)を小人剣と称した。)と言うんですね。孔子、孔孟では、君子、小人と分けて、君子の剣、ね、島田の君子剣、それで自分は一派をなした。だから弟子を教えるときには、見込みのある者には本当のところを教える。勝海舟が入門した。十七でね。これは大した人間だと見込んで、ね、「おまえは本当の稽古をやれ、今、道場でああーたたけ、あー、うそ、本物じゃないんだ」。ね、そうして本当の剣道と、ね、もう一つは「剣道は心の問題だから座禅を組め」、師匠の言うなりにそれを四年やった。二十才(はたち)まで、それが四十才の時の明治維新の瓦解(がかい)の時にそれが役に立った。ね、
【注釈】がかい=徳川幕府の崩壊(山岡鉄舟は、幕府方の軍事総裁勝海舟の委任を受け、西郷との談判により江戸城の無血開城に貢献した。西郷をして「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るなり。ただこの始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)(困難なことに出あって苦しみなやむこと。)を共にして国家の大業は成し得られぬなり。」と言わしめたと言われれている。(剣窓スペシャル「剣道修錬における幾つかの道標について」中村龍夫より)
何をやった。心を極めた。皆んな師匠がいいから、山岡先生には、浅利又七郎(山岡鉄舟に一刀流無想剣の極意を伝授した。)がいる。坊さんに滴水(てきすい)(天龍寺管長の滴水について禅を修行した。)がいる。それであれだけのものができたん。ね、それで聞くと言うことは先生、これが大事。ね、、聞きっぱなしじゃいけない。聞いたことはよーく、自分にとってね、自分で考えなきゃ。どういう訳なんだろうなあーと、自分で考える。ね、それで、ああっそうかと、ね、納得がいきゃ、今度はそれから稽古、修錬、修行する。実際に、実際にやりまして先生に聞く、思って、修行する。このコースを取らなかったら誰だっていけるもんじゃないですよ。ね、このコースを取らないで第一流の人になるには、それはね、もう生まれながらの神様ですね。御釈迦様は、このコースをとらない。ね、雪山(せっさん)に六年間入ってね、骨と皮になって修行した。このコースを自分で発明した。仏教を自分で発明した。ね、なかなかそう御釈迦様だけの人はそうありゃしない。普通は、これ(聞思修(もんししゅう):教えを聞き 思い考え 身に修めること)、聞いたら思って修行する。この字一つ欠いてもいけない。「聞思修(もんししゅう)」ね。そうすると、成る程という悟りが開ける。聞思修証(もんししゅうしょう)、こういう順序。ね、修行はこういう順序。
【注釈】(参考)「耳にきき 心におもい 身に修(おさめ)せば いつか菩提(さとりに 入相(いりあい)の鐘(かね)(日暮れ時に寺でつく鐘)」という古歌は、まさしくさとりへの道をうたったものです。
剣道は、これをどうやらせるかと言うと「理」のところは、昔は打ち込み三年ね、もう構えておって、相手を狙って、そういうことをやらせない。もうどんどんどんどん掛かり稽古をやる。ね、

8 剣道の基礎は切り返しの最後の一本だ
 心というのは考えるんじゃない。自分の地はあるんだからね、余計な雑念をね、雑念を踏んむいていけゃいい。心を極めようと思ったらこう放っといたら頭へこう来るから頭へいかないで、腹、踵(かかと)の方へ踏んむいていけばいい。ね、その方法は、掛かり稽古なん。これをしっかりやった者がいいん。これが東京にはないんです。私が東京へ出たのが大正八年だが、もうそんなことないん。ね、修道学院で切り返えて、あれは準備運動だった。
【注釈】しゅうどうがくいん:高野佐三郎が大正七年五月神田に開設の道場(「修道学院の青春」より)。(「剣道の歴史」(年表)では大正四年の記載あり。)
だから役に立たないん、これをやったのが京都で内藤高治(たかはる)先生、ね、
【注釈】ないとう たかはる、1862年(文久2年) - 1929年(昭和4年)は、旧水戸藩出身の剣術家、剣道家。1899年(明治32年)、京都の大日本武徳会本部に剣道師範として招聘され、以後、武徳会本部、武道専門学校で剣道を指導した。大正時代には、高野佐三郎とともに剣道界に大きな影響力があり、「東の高野、西の内藤」と並び称されていた。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
もう掛かり稽古、切り返しで鍛えた。若い頃はね、ね、それだから心のもや、立つとすぐ小手先で打ちたがる。そいうものが身体全体に渡っちゃう。手先じゃないん。頭のてっぺんから足のつま先までグーッと、ね。これを気合いの魂(かたまり)という。ね、手で言えばグーッと、もう拳(こぶし)一つになる。バラバラじゃない。ね、藤田東湖(ふじたとうこ)が正気(せいき)の歌で
【注釈】ふじたとうこ:江戸時代後期の幕末に活躍した水戸藩の政治家、水戸学藤田派の学者。江戸末期の尊皇攘夷論者。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
「凝(こ)っては百錬の鉄となる。ね、千鍛百錬(せんたんひゃくれん)(百回練習し、千回鍛錬せよという意味)したところの鉄となる。(ただの鉄の塊でも、千鍛百錬すれば、りっぱな日本刀になる)」ね、これは絶対ということなん。これが心の根源なん。明治の初め頃は、自然にそういう稽古をしたからいい先生が出るん。ね、いい先生は、全部警視庁に集まっちゃった。当時は、そいで、若手がね、高野佐三郎先生だとか、川崎善三郎、
【注釈】たかの ささぶろう:昭和の剣聖(しょうわのけんせい)戦前の昭和期において傑出した剣道家)の一人。高野佐三郎、中山博道 、持田盛二 、斎村五郎の4名、又は高野佐三郎と中山博道のみを指す場合がある。明治二十一年浦和に明信館道場を開く。大正七年神田に修道学院を開く。東京高等師範学校の教授を務め、昭和二十五年十二月没、享年八十九歳(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
高橋赳(きゅう)太郎(高橋赳太郎は、警視庁の撃剣世話掛となり、高野佐三郎、川崎善三郎とともに「三郎三傑」と称されていた。)、こういう先生、元立ちのほうが多いそうだね。大先生が、掛かる方はまだ二十一才くらいだ。ほいだもんだからもう一本済むとね。もう空いているんだから休む暇がない。こういう稽古、しまいには稽古じゃない。ただただこうフラフラぶつかっておったらしい。ほいで、突き飛ばされると、やっている。いつの間にか先生を替えてやっている。先生は知っているが、こっちは分からないんね。これは稽古じゃなく掛かり稽古とおんなじですよ。ね、そういう稽古をああいう先生方は、二、三年やっていますね。で、打ち込み三年、自然にそこにはまっちゃった。それだから、土台が出来てますよ。高野という先生なんか、この、非常にね、技(わざ)の器用な先生だけれどもね、そういうところが、稽古の構えがドーッと落ち着いている。それはその時代に出来ている。この土台が出来ている。稽古におっかなびっくりの所がない。ね、これが土台になる。稽古でそこまで錬れば、我々がね、今、地球上のどこでもおっかなびっくりですよ。おっかなびっくりがなくなるでしょ。ね、落ち着いて安心して毎日毎日が生きていけるん。人の顔色を見る必要もなし、何を言われよう。自分のやるべきことをグーッ、グーッとやる。ね、これを熟すると、これは楽しくなるん。生きていくことが、ね、正々堂々としたもんですよ。これが人間の基盤なん。剣道もこれが基盤になる。こう構えて打ちたくなったり、攻められて、こんな格好したってだめ、ね、ここをしっかりやらなければ、だから心、ね、それで、そこまで行くとね。自然にそこまで行くと自然にもう眼も手も何もきかなくてパッと技が出来る。これが技の根源になる。
 高野佐三郎という先生は、そういう稽古をやっているからね。「剣道の基礎は、切り返しの最後の一本だ」。ね、切り返しをやる。ね、もう最後は手でも打てない。足でも打てない。身体をぶっつけていくより仕方がない。ね、その一本が千変万化の元になる。最初ここまでやっておかないとだめなん。これをやらないと一生涯、ね、その心の不安がとれないん。ところが今切り返しでそこまでやらないですよ。ね、ここが大事なところですからね。そうしたところで出た自分の構えというものは、ね、構えというものはね、こういう勇気が自分の中にあるんかと思うくらいの勇気が出る。これが構えなん。
 山岡先生は、ここを「立ち切り」という方法でやらせた。
【注釈1】【山岡鉄舟の無刀流の理念と修養論】
「先に述べた時代の転換期のなかで、いかに世に処するかを迫られていた剣術家に光明を与えたのが、山岡鉄舟の無刀流の理念であった。彼は、幕末以来継続してきた剣と禅の修行を通じ、伝統的に主張されてきた心法論を発展させ、剣術は、刀や竹刀で勝負を争うのではなく、事(刀法)、理(理合・心法)を一致させる努力のなかで、心を磨き、鍛え上げた心の刀で相手と対峙(たいじ)するという「心外無刀(心の外に刀無し)」を唱え、明治十三年(一八八〇)無刀流の開祖となり春風館を創設する。これは、技術を売り物にする一部の剣術家と、勝負に拘泥(こうでい)(気持ちがとらわれること。)し興味本位に流れる剣術界に対する警鐘でもあった。この山岡の無刀流の理念は、明治九年(一八七六)に廃刀令が施行されて間もない頃でもあり、剣術とは、刀を操作する技術ではなく、修養のために行うものであるとして多くの剣術家に迎え入れられた。明治十三年(一八八○)から二十二年までの入門者は四百一名を数える。門人以外にも、高山峰三郎、下江秀太郎、松崎浪四郎、逸見宗助、高野佐三郎ら、のちに剣道界の指導的役割を演じる剣道家もしばしば来館して、稽古に励んだり山岡の講話に耳を傾けたりした。」(「剣道の歴史」(全日本剣道連盟)より)
【注釈2】【訳:無刀とはなんであるかといえば、心の外に刀はないとすることである。敵と試合をするとき、刀ではなく心によって相手の心を打つことを無刀という。「山岡鉄舟 剣禅話」より】
一日、二百人稽古(二百面試合=約十時間かかる)をさせたね。相手は替わるんですよ。十人位くるんだから、あれから、そうで相手は立たせないことが主眼なん。ね、二百人(面)立ち切られたら負けたことになるんです。だから、立たせないで、突いたり、投げたり、組み打ちしたりや、ね、それを立ち切る。最高は七日間立ち切る。ね、最初勝った(立った)人は、香川善治郎(山岡鉄舟が開いた一刀正伝無刀流の二代目)という人、ね、そこまで行くと自分の、ね、持って生まれた本当のものが出るんです。これが元になる。ね、
【注釈】香川善治郎の手記から、立ち切りは、午前六時頃からはじめて、午後五時半までかかっていたようである。「対手は十人にして立ち替わり入れ替わり息のある限り攻め懸かるなり。・・・・翌二日目も前日の如く・・・・・。四日目の朝、師(山岡鉄舟)の命により中止した。(「剣と禅」より)

9 事(わざ)(わざ=技)の修行について
 これが「理」の修行。それで、そこまで行ったらね、その次は事(わざ)(わざ=技)の修行、ね、これは三年、理の修行は三年、三年でいいん。ね、後は事(わざ=技)の修行、少なくとも事(わざ=技)の修行に入って十年間は骨が折れるんですよ。
 小手先だけの稽古をやっているんだら何でもない。ね、「理」の修行で出来たところの頭のてっぺんから足のつま先まで気合いが充実しておってね、その充実したところから小さな技でも、大きな技でも出るということ、これが骨なん。充実していないところから技は手は動かない、技を出すと今度は手先になるん。この苦労だね。これをやる人がないんです。面倒くさいから、ほい元に立て、ほらほら、掛かる者に稽古を引き下げられてしまう。ね、そうして、ね、一足一刀の間で使う。これがここですよ。この辛抱ができないん。ほいで、この時は、技でもね、「理」の修行の時は一本技だけでも、技でも連続技、技は繋がっている。ね、「理」の修行で本当に打った技は、体(たい)をぶっつけて打った技はそれでおしまいじゃないん。ぶっつけた、打った後は自然に心が残るん。体(たい)(たい)をぶっつければ、ね、それを残心、心が残る。それが続くん。一本技じゃない。それを事(わざ)(わざ=技)の修行のところでね。これを女波(めなみ)、男波(おなみ)、小技、大技、大技、小技、間合いならば遠間、一足一刀、近間、こういう間合を修錬するん。あらゆる技をここでやる。ね、これが非常に骨が折れるん。そいで、この技を修行するときに大事なものがある。自己流では遅いん。ここでものをいうのが形なん。ね、今、日本剣道の形がありますが、あの(太刀)七本では足りない。
【注釈】大日本武徳会が明治八年に創立された当初においては、三本の形が制定されたが、その後、大正元年十月に太刀の形七本、小太刀の形三本の計十本で構成される大日本帝国剣道形を制定した。大正六年九月加注、さらに、昭和八年五月に加注増補したものが原本となっている。(「日本剣道形解説書」(昭和56年12月7日制定)より)

10 形のすすめ
 一刀流は百本(一刀流正伝無刀流百本、北辰一刀流は四十三本など、他の流派でも多かった:当時、竹刀打ちはあくまで組太刀修行の補助であった。)もある。ね、高野佐三郎という先生はね、「日本剣道の形」(旧大日本帝国剣道形(昭和8年5月加注増補)のこと)と言ったら主査員(大日本帝国剣道形調査委員会主査委員:高野佐三郎、内藤高治、門奈正、辻真平、根岸信五郎)でしょ。その人が自分の道場(神田の修道学院)には、昭和三年と思いましたがね、仙台から桜田藤磨(ふじまろ)という北辰一刀流の先生が来て泊めてね。ほいで、
【注釈】((ほくしんいっとうりゅう)とは、幕末の剣豪、千葉周作が創始した日本の剣術を中心とした古武道の流派の1つ)(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
修道学院の門人に「剣道は形をやらなければだめだよ。」とそれでやらせた。ね、いかにこの形が大事かと言うことが分かる。私はもう現在、満八十と六か月だが、ね、稽古をやっても疲れもしないし、おもしろいん。なぜかというと形をやっているから。ね、形をやっていなきゃできませんよ。そりゃね、第一相手に体当たりでもされたら危ないという気がするもん。それだったら、もうできゃせんね。だから、この技を使う。形をやらなきゃ。ね、力でやったり、無理押しでした人はもう五十位になると、技が落ちてくる。形でやった人はだんだんだんだん熟する。ね、この「技」の(修行の)ときに形をやった。で、形に原理がある。それをよーく覚える。身につける。
 一刀流に他流勝ち(組太刀の一種)というのがある。他流の者とやってね、そのうちにね、「勢(せい)、勢(せい)いと言うのは、勢(いきお)い、十、大、極、(刀、)摩、利、支、尊、天、(御、剣)」(せい、じゅう、だい、きょく、(とう、)ま、り、し、そん、てん、(ぎょ、けん))こういう形がある。どれも完全、勢(せ)いというのは、勢(いきお)いがいっぱい、十も完全、大も完全、武道の構えに摩利子尊天(まりしそんてん)、摩利支尊天の太刀、こういう形がある。
 これは剣道の根幹をなしている。どういう形かというと、打太刀はね、これは上段、こう上段、上段ね。一方はこの正眼、どっちも後足を固めて退かないん。それでね、退かないで一、二、三で出るんだ。中段の方も退かないで、一、二、三で、ここまで来る。そいで、ズーッと元に下がる。これが剣道の根本。ね、脇見ていないで真っ直ぐ、これを覚えなきゃ。それで傍(そば)に行くほど、これ(手首・肘・肩)が柔らかくなるんでね。中段でも攻める程、いく程、これが柔らかくなる。傍に行くほど柔らかくなる。修錬しないと傍にいくと硬くなっちゃう。それじゃだめ。ね、こういうね形をやると、こういうところを覚えられる。ね、又形の中に「不慮天(ふりょてん)」というのがある。「天を慮(おもんぱか)(おもんぱか)ることをあたわず」ね、天がおもんぱかる事(天が思い知ること)ができないんなら、相手に解りっこない。そりゃどういう形であるかというと、こう構える。相手と構えている。ここでね、構えているところで後足の、ズーッと後足が出る。ね、ところが、前足が基準に、後足が基準になっているんだから実際は入ったわけだ。ところが前足がここにいるから、入っちゃいない、で、相手は解らない。入れられたのが解らない。それで技を出せば入っちゃているから、パッと、ね、形をやるからこういう技が出来るん。力はいらないん。この足を使うのがね。高野佐三郎先生と高野茂義先生が、これが一刀流だから、高野茂義先生は二十四番まで下がんなきゃ。こう構えておってね。この足だけだなあ、こうズーッと入ってくる。ね、
 高野、こう先生が掛かったらここ道場の隅まで押されちゃうね、崩れないから、不慮天、そのかわりこっちは、我が引きながら打って当たるけどね。うん、とにかくズーッと、それを普通にこう攻めていったらだめなん。ね、で、稽古を高野佐三郎先生は、こうこう、構えて左手はここに入って、左足はこんなふうになってね、打つ前にゃ、これになちゃう不慮天になっちゃう。左手はここへ入って、左足がここに入っちゃう。ね、たたった。一本技を出せば三本くらい打つ。ここの足が違う。いくつになっても使える。
 上段取ったってそうだ。上段だって後足はこんな、上段取ったって後足は、ここに入っちゃっているん。ここへ入っちゃっている。袴をはいているから分からない。こう入っちゃっているん。ね、みんな、こうところは形にある。そして、それを自分で出来るまで習っていくん。ね、で、ここで形をやらなけりゃ、ね、形をやらない人の稽古はおかしいですよ。何か、引いたらだめだという人いるね。ただ出るだけ。形は、人間は出る場合もあるし、下がる場合もある。自由自在、ね、精神が引けてはいけない。そうでしょ。精神が引けてはいけないけど、身体は引こうが、何しょうが自由自在。ね、形をやっているとそれが分かる。自己流だとね、引く人は引く一方、出る人は出る一方。それではある程度で止まっちまう。ね、で、どうしても形、「技」のところでは形を手本としてしっかり、それでこの時代でね、もう一つ大事なのは、ね、稽古の数を余計かける。稽古量(りょう)、稽古力(ぢから)をつける。この時代に。

11 稽古力(けいこぢから)をつける
 「理」の修行というのは、これは、今話しているのは、ものの考え方ですね。滅茶苦茶稽古はない。これが開けていなきゃだめなん。ね、剣道は、ね、これだけではいけません。稽古力(ぢから)をつけなきゃいけない。
 これをやんなきゃ、稽古は、ね、これは稽古の数をかけるよりは手はないです。専門家とそうでない人の違いが、やっぱり、専門家はここの稽古力をつけている。ね、普通の人はもう、趣味とか体育だとね、剣道専門にやる人は、この稽古で死ぬという気という。ね、この稽古力の根本はこれから出ているん。
 どうせ人間は死ぬことは決まっているんだ。ね、自分の本分で倒れるのは当たり前だ。それ(死ぬ気)が剣先に出るん。斎村先生や持田先生が強いのは、ここ(死ぬ気)から出ている。かけ・・・・・・そんなところへは出ちゃいない。それは学生とは違う。ね、ここがしっかりしていなくちゃだめですよ。道力(どうりき)は、これで稽古力(けいこぢから)(けいこぢから)をつける。ね、中山搏道(はくどう)(なかやまはくどう)先生は、胸から水を二升取った。
【注釈】なかやま はくどう、 1873年(明治6年)2月11日 - 1958年(昭和33年)12月14日)は石川県金沢市出身の武術家、武道家。神道無念流第7代宗家。高野佐三郎とともに近代剣道界の双璧とされる。剣術、居合、杖術を極め、多くの流派の技を研究し「最後の武芸者」とも呼ばれる。剣道、居合道、杖道の三道で範士となった唯一の武道家。昭和の剣聖の一人。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
そして四回、ね、そして稽古ができない。出来ないと弓をひいた。そういうところから出ているから、ね、これ(稽古力)をつけなきゃ駄目なん。ね、こういうことは、話を聞くから分かるん。ね、稽古の量を、量と同じ、ここから出ているん。で、これが大事ですよ。これがないと、これはやっぱりね。話を聞くとか、いい本を読む。ね、私は論語という本は良い本だということを数え十七の時に学校の校長から聞いてね。もう自分は若かったんだ。それで、本を買って、それでよいしょ。ま、これはいい本だ。そういうものを・・・・道力(どうりき)(禅で養うのは「眼力」と「道力」です。「眼力」とは真実を見極める力。「道力」とは正しい行いを実行する力です。)、これができる。人間なんか道のためなら今、死んでもいい。「朝(あした)に道を聞(き)かば、夕べに死すとも又可なり」(論語:「朝、人間として本当に正しい道を知ることができたならば、たとえ夕方死んでも悔いはない」という意味。)これはそのとおり、そっから道眼(どうげん)(眼力)も開き、道力(どうりき)もつく、ね、この「技」の時代にはそれをやるんですよ。

12 呼吸法(数息観(すうそくかん))について
 この時代に何でもかんでも必要なものはみんなやっちゃう。それから細かく言えば、人間はね、一分間でも息を止めていない。息をしている。寝てもしている。ね、ただしているのと、この息を工夫しながらしているのでは違う。ね、そうすると、これがつく、道力がつく、昔は難しいことを言わないでこれをやらせたね。
 高野先生なんて四つの時、秩父でね、お爺さん(祖父:高野苗正(みつまさ))が偉かったらしいね。朝早く起きて「太陽を飲んでこい」。太陽が、あーあー、今日は三つ飲んだ、なんだ。やってくる。あの山いい空気のところで早く起きて・・・・ね。自然にこの胸がこう、四つくらいでもう身体の根幹が出来ちゃうですよ。ズーッとね、それが習慣になってね。いつでない。七十過ぎたとき「先生は疲れませんか」と言ったら先生は「わしは息を貯える修行しているから疲れない」、息を貯える。疲れない、ね、ズーッとね。形は六つのときに(祖父苗正と)一刀流五十六本を殿様(松平下総守)の前でやった。大事なことがみんな入っているんですよ。ね、こういうものを入れる。呼吸、呼吸法には、先ず姿勢を正さなきゃ。こんな格好じゃ、姿勢が、ね、姿勢を正して、呼吸をズーッと、一番簡単なのは、息をこうやってみる。数息観(すうそくかん:座禅を組んで静かに自分の息の数を数える修養の方法)ね。吸う息、吐く息で一つ、この呼吸これを真剣にやってごらんなさい。剣道は呼吸だ。ズーッと、私が持田先生とよく稽古を願った。(昭和29年11月~昭和36年11月まで「百回稽古」を行っている。)
 私は六十二まで持田先生がいた。どっちも打たないで構えている。いつまで経っても打ってこない。先生は、なぜかというと、ここへ、私が技を出すまで息を数えているくらい、だから持ちこたえられる。ね、少しでも技を出そうとしたら起こりをパーンと来る。起こりがなきゃ打ちゃしない。ね、それが呼吸なん。こう構えておって‥‥‥呼吸がそれまでに続く、それを「技の時代」にね、呼吸をやってくんですよ。
これをやったんで一番の手本が白井亨(しらい とおる: 1783年(天明3年) - 1843年12月5日(天保14年11月14日)は、江戸時代後期の剣客。)ですよ。剣道で行き詰まってね。荒行を五年やったん。これじゃ荒行で死んじゃうということが分かったから、呼吸法に変えた。白隠(禅師)が、呼吸法に変えてわずか二か月で健康体を回復してね。これが剣道の近道だ。千葉周作が「名人というのは白井亨だ。」と折り紙を付けていますが、これは呼吸法。ね、こういう修行はね、呼吸法で錬ったんだから自分の本体ができる。‥‥‥本体が出来る。剣道は自分の本体を作ることが大事なん。こういう修行があるということは、後世の剣客等の出来は夢にだむしるあたわざる。ね、剣道に続いてそうかではなく、そのとおり自分の方で呼吸が納まるように、こうーとね、本当に納まった時は相手が見えない。相手の起こりを打ちゃいい。どんなにスピードでいったって、相手の構えがちゃんと、いったってだめなん。ね、そういうところは、呼吸法をやっていると、自然に出てくる。ここで呼吸法。そうして、ね、この時代を先ず十年間、本当にやることですね。

13 応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)について
 そうしたらば、今度は、どうなるかというと、この時一つ言葉を入れ。この「技」の修行のところを言葉で、一括で言いますとね。「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」(応(まさ)に住(じゅう)する所無くして其(その)の心を生ぜよ(しようとする事に心を奪われたり、執着することなく、無心に対処せよ、という意味。))これは、金剛経((こんごうきょう)仏教経典。正しくは『金剛般若波羅蜜経(はんにゃはらみつぎょう)』という。)にある。「応無所住」というのは、まさに住するところがない。どこへも置かない。どこにも置かないというと、じゃ空っぽかなというと、どこにもあるん。頭のてっぺんから、足のつま先まである。それだから、この「応無所住」というのは、この「理」、これを「応無所住」どこへも置かない。、本当の充実した所、ね、孟子の「浩然の気(こうぜんのき)」
【注釈】浩然の気(こうぜんのき):人間内部から沸き起こる道徳的エネルギー。これは自然に発生してくるもので、無理に助長させず正しく育み拡大していけば、天地に充満するほどの力を持つとされる。別の言葉で言えば生命力のこと。(「yahoo!百科事典」より)
というのがある。それで、そこからね、「而生其心」その場、その場の働きが出来る。これが「技」、どこへも置かない。ね、どこへも置かないけど、その場その場で千変万化。これを「技の修行」のときに、時代にやるんですね。これも大事なことだから沢庵和尚は不動智神妙録の中に一項目挙げています。「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」ね、これはどういうことであるかと言うと、何をやるにもね、人間が何をやるにもね。一心ということ。ね、当面した問題に一心にやるということ、「技」はそうでしょ。
 皆さんが職場で自分の職務をやるときは、そうでしょ。自分の問題に一心にやる。これが最高でしょ。「技」これをやっている。余念(よねん)(余計な考え)を入れない。ね、そうかと言って仕事ばかりじゃない。遊ぶときはよく遊べばよい。小学校の生徒に言っちゃ「よく学び、よく遊べ」ただ遊ぶんじゃなく、学ぶんじゃ。ね、よく遊ぶ、よく学ぶ、一心と言うこと。ね、この修行なん。ね、これが大事だ。これをもっと、ね、もっと分かりやすい言葉で言うと、「技」の修行では「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」(じきしんこれどうじょう:素直な心を持っていれば、いつでもどこでも道場(修行の場所)となる。)、ここまではね、今年の三月、東京都で宮川が、賞品に手拭いを出すから先生何か、二つか三つ書いてくれと言うので、私はこれを書いて出した。「直心」もう一つは「念々正念(ねんねんしょうねん)」と書いた。今年は、「念々正念」の方を手紙にやった。来年は、これを出すと言った。
【注釈1】「次々にわいてくる雑念を正念化していくと、一念一念が正念のかたまりになってくる(念々正念)。それが停滞しないから「正念相続(しょうねんそうぞく)」。(「小川忠太郎範士 剣道講話」より)
【注釈2】正念とは、雑念を払い仏道を思い念ずることで、正しい真理を思うことを意味し、修行の邪魔となる雑念に乱れない信心も意味する。そこから、「正しい心」「正気」が必要な場面を「正念場」というようになった。(「語源由来辞典」より)

14 直心是道場について
 これが大事なん。「技」のところで、直心(じきしん)、素直な心、ごまかさないね。これには意味があるんですよ。維摩経(ゆいまぎょう:大乗仏教経典の一つ)というお経の中からあるんで、維摩(ゆいま)という居士(こじ)(こじ)が城からね。城へ帰ってくる。そうすると、若い坊さんが城から出て、これからね、こう騒がしい所なんか、静かな所へ行って修行しようと思って城から出て行く、バタッと行き会った。そいで、その若い修行僧が「維摩尊(ゆいまそん)あなたはどっからおいでになりましたか」と聞く、そうしたらば、維摩居士(ゆいまこじ)が「直心是道場」、どっから来ましたか。「直心是道場」ね、そいでその坊さんこう「直心是道場」というのは何だろうか。・・・・と、まだ解らないからね。
 そういう清浄(せいじょう)なところだけが道場、それ以外の場合は、道場じゃないと思っておった。ね、ところがそうじゃない。直心と言うのは何かというと、外(そと)にはないでしょ。素直な心、自分でしょ。ね、純真ね。直心ね、「浩然の気(こうぜんのき)」は直(ちょく)(ちょく)をもってやれ、直心、直心であればね、そんなきれいな、すがすがしいところであれ、便所に入ったってもいいじゃない。自分さえ直心なら、どんなガタガタ忙しい所へ行ったって自分の方はズーッとすがすがしい道場にいる。どこにおっても。ね、道場というのは、こっちなん。ね、そいで自分が直心でなければ、すがすがしい道場に入ったって直心じゃありゃせん。なれあせん。ね、頭の中勝った負けた。あれはくやしい。そんあことやったらだめ。どんなところへ行ったって。しょっちゅうワイワイ言っている。今の世相みたいだ。ね、ここは大事なん。「技」のところでこれをやる。私はある全剣連の大阪の新聞に出て、今から十年ばかり前ね。野沢たかしさん、あの人がこの話をね、妙心寺の管長から聞いてびっくりした。今まで知らなかった。それを出しましたよ。だったらこんな話を、ね、そいで私は「偉いとネ、野沢さん」実業界の人がね、この話(直心是道場)を聞いてびっくりするんだもん。ね、同時に感謝している。やっぱりあれだけの大きな所の社長になる人はただソロバンだけじゃないな。ね、そういうものですよ。ね、直心というのは、これが道場なん。こっちをね、そうすると、剣道で言うとそこへ持っていくと稽古数はそんなにやらなくも上達する。その実例が斎村五郎という先生、
【注釈】さいむら ごろう:早稲田実業学校、警視庁、陸軍戸山学校、皇宮警察、早稲田高等学院、早稲田大学、日本大学等の師範、国士舘専門学校の教授を務める。戦後は警視庁師範(のち名誉師範)、国士舘大学教授(のち名誉教授)を務め、戦後GHQにより禁止されていた剣道の復活に持田盛二らと共に尽力する。東京オリンピックのデモンストレーションでは、持田盛二と日本剣道形を演武した。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
そんなに稽古数やらないですよ。それでも剣を持ったら大したもん。ね。普段これをやっている。ね、それで「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」「直心是道場(じきしんこれどうじょう)」ということを腹に入れてね、そうしていくとね、もう自分が、もう昨年よりは今年、今年よりは来年と・・・・だんだん良くなる。ところが、この辺でこれ(直心是道場)を欠いたらどうなりますか。少し当たれば天狗だ。大きな大会で優勝でもすりゃ。ああー。ともうそれでペチャンコだ。えーッのぼせちゃって、人が相手にしないのも知らないで、自分だけ偉い者と、ね、おれは選手権を二回優勝だ。三回だ、そんなことないない。方角が違う。ね、そういう慢心したり、横道に入らないための守り本尊がこれ、「直心是道場」、いつでも謙虚にね、ズーッとそうすると、そういう優勝したことがプラスになる。ね、それが持田先生、
【注釈】持田盛二:もちだ もりじ、1885年(明治18年)1月26日 - 1974年(昭和49年)2月9日)は、大正から昭和にかけての日本の剣道家。剣道範士十段。号は邦良。高野佐三郎、中山博道と並ぶ昭和の剣聖の一人。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
第一回の天覧試合で優勝した。あんな試合して恥ずかしい。それで朝鮮(朝鮮総督府警察局師範)から辞めさせないのを無理にお願いして東京に来て修行した。ね、十年間経った後の持田先生は稽古だけ。ね、それがこれ(直心是道場)なんですよ。これが自分を守る。それが大事なところ。ね、そうでなければ、この時代はもう、三十前後は誰だって慢心する。又、慢心しないような程度の稽古ではどうしょうもない。ね、もう三十ともなってね。俺は日本一だという位の腹にそういうものがなけりゃだめですよ。三十位になれば。ね、しかし、それじゃいけないね。まだ剣道は深いものがある。ということでこういうものを自分を抑えて毎日毎日修行する。伸びていく、どういうところで伸びていくかというと、こういうところ(事理一致)へ、初めはなかなかこれとこれが一致しない。

15 事理一致について
 一致しちゃう「事理一致(じりいっち)」(事理一致とは、剣道を修業するにあたっては技の修業と心の修業とが並行して進むべきものであって決して何れか一方に偏してはならないことを言ったものである。)、剣道というものは、こういうもんなん。こういう稽古でなくちゃいけない。これも皆さんは話を聞くから解るんであって、ね、中には剣道を事(わざ)(わざ=技)だけで言っている人があるね。「そうじゃない事(わざ=技)じゃないよ心だ」と言って、それだけでも言っている人がある。どっちも間違っている。ね、「事理一致(じりいっち)」なん。ここへ来る。ね、ここへ来るとどうなるかというと、ね、同じ事をやって楽しくなる。この理は、正しい、ね、本当に頭のてっぺんから足のつま先まで充実した所を正しいという。ね、人間がぎりぎりの所まで行ったときは、正しくなる。ね、ここを楽しくなる。楽しくなる。同じ事やったって楽しい。
 徳川二代将軍の時、小太刀の名人に「小太刀半七」がいた。秀忠将軍が「小太刀はどう使うんだ」と聞いた。そしたら「小太刀がなんとなく、面白く使うのみで候(そうろう)」理屈なんかない、面白く使えばいい。そしたら二代将軍がね、感心してね。「そうか、戦争がそうだ。面白くやれるときはいい考えがどんどんどんどん出てくる」と言って感謝したということが書いてありましたがね。
【注釈】二代将軍秀忠の時に、小太刀半七という剣法の達者が鉄扇(てっせん)をもって仕合をすることに妙を得ているということを秀忠が聞いて、それには何か特別の術があるかと尋ねて見た処が、「別に何の術もございませぬが、仕合を致しまするときに、何となく面白い心持が致すのが極意でございます」と、返答をしたので、秀忠が大いに感心して云うことには、「すべて戦などに臨んでもその通り、面白しとさえ思えぱ恐しいことはなくなって、謀(はかりごと)も自から出て来るものである、聊(いささ)かの争いにも心が迫って顛倒(てんとう)するところから手ぬるくなっておくれをとるものだ」と云われた。(「三河之物語」より)
そう、おもしろく使う。楽しい。稽古も楽しい。ここまでいくと日常生活も楽しくなる。他(はた)から分からないですよ。普通の人はなあ。家でも大邸宅を持って、金でも沢山持ってね、そういうものが、付属物があると楽しいような気がするんだね。そういうことで、それから人からちやほやされると、なんだか生きているような気がするんだね。それも結構だけどね。そうでなく、この修行すると本当に楽しくなる。持田先生が小野十生(じっせい)
【注釈】(おのじっせい)(笹森順造宗家(小野派一刀流)の高弟は、鶴海岩夫、小川忠太郎、小野十生、石田和外とされる。)
に「小野君、僕は近頃毎日毎日楽しくてしょうがない、人間というものは、これで済むもんかね」と聞いたって。七十ね、これは偉いですよ。七十過ぎて毎日毎日が楽しいということはね、何のお陰だ。こういう稽古をしてきたお陰なんです。楽しいね。それでここはね、ちょっと、これが今、話はうっかりすると誤解されるん。ここまでは、為になる何か努力だから。ね、正しく努力してくるから楽しくなるということになると。ね、ただ楽さえすればいいかなあと思っている。そうじゃない、自然にそういう心境になる。これを平易な言葉で言うと、ここは、応無所住‥‥‥‥‥、心が平常心なん。ね、「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」(へいじょうしんこれどう)、ここへ来る。毎日の生活が楽しくなる。ね、「平常心是道」、個人の生活からいったらこれが最高ですよ。また、ここはね、遊びと言ってもいい。遊戯三昧(ゆげざんまい)、生活にゆとりが出てくる。ね、私の友達がね、病気して半身不随になっちゃて、もうそれは治らないんです。それだけは、だけど本人困ってね。私に「小川先生、平常心というのはどういうもんだろうか。今まで平常心、平常心と言っとたが、こういう病気になってからの平常心に困っちゃった。」聞いたから、まあ、言いようもないから、本当のことを言ってやった。「平常心というのは、あなたが今そういう治らない病気になって、その病気が楽しめれば平常心だよ。」ね、「その病気が楽しめれば平常心」そうでしょ。「晴れてよし、曇りてもよし、富士(=不二)の山、元の姿は変わら(ざりけり)ない。」(山岡鉄舟の和歌)ね、病気になろうが、健康であろうが、金持ちになろうが、貧乏人になろうが、そんなもんどっちがどうで、元の姿は変わらない。ここには、ここさえ、ここをしっかり鍛えさえておけば、元の姿は変わらない。
 この時が一番働けるんです。平常心、これは、「理」のところが拳で言えば、「凝(こ)っては百錬の鉄となる」、グーッとね。どんなものでも切ってしまう。「事(じ)」のところはこれ一つではないん。ね、「発(はっ)しては万朶(ばんだ)(ばんだ=多くの花の枝の意味)の桜、開けば・・・」、ね、
【注釈】藤田東湖漢詩集:「正気歌」より:「天地正大(てんちせいだい)の気(き)、粋然(すいぜん)として神州(しんしゅう)にあつまる、秀(ひい)でては不二の嶽(ふじのたけ)となり、巍巍(ぎぎ)として千秋(せんしゅう)に聳(そび)ゆ、注(そそ)いでは大瀛(たいえい)の水となり、洋々(ようよう)として八州(はっしゅう)を環(めぐる)る、発(はっ)しては万朶(ばんだ)の桜(さくら)と為り(なり)、衆芳与(しゆうはうとも)に儔し難(たぐいがた)し、凝(こ)っては百錬(ひゃくれん)の鉄(てつ)と為り(なり)、鋭利(えいり)兜(かぶと)を断(た)つ可(べ)し、盡臣(じんしん)は皆(みな)熊羆(ゆうい)(ゆうい)にして、武夫(ぶふ)は尽く(ことごとく)、好仇(こうきゅう)なり」(訳:天地正大の気は純粋のままに日本に集まっている。高く秀でては富士山となって、いつの世にも威容を聳(そび)えさせている。水となって注げば海原に流れ入り、はるばると大八州(おおやしま)を還(めぐ)る。花と開けば万朶(ばんだ)の桜となり、その美しさは他のどの花も及びがたい。鉄に凝集すれば百たびも打ち鍛えられた日本刀となって、その鋭さは兜をも断ち切ることができる。こうした生気が人に集まって忠義の臣はみな熊や羆(ひぐま)ごとくに健(たけ)く、武夫(もののふ)は、ことごとく主君の頼もしき腹心となる。)
同じ元は一つ、「事理一致」はどうなるか。開いただけじゃない。晴れて良し曇りて・・・・どっちが表、裏か、表だと自由自在、社会というものそういうもんなん。表が出たり裏が出たり、これだけのもんだ。それが自由自在。ね、ほいだから倒れない。どう変わったって自由自在ね。これが自由、これが楽しい。ここまでいくと、人間は、ね、剣道で個人形成が出来た。全剣連で「剣の理法の修錬による人間形成の道である」というところの人間形成の個人形成。しかし、我々は自分一人で生きているんじゃない。社会は大勢で生きている。人様のお陰で生きている。そいで俺は楽しいからと言って、家庭でもそう、自分が楽しいからといって他のものが苦しんでいるのに、平気でおれんのは、これは自然ですよ。自然に他のものが苦しめば、自然に道場(同情?)に行くんじゃない、家庭でも。しょ、これが人間なん。ね、それが「事理相忘(じりそうぼう:心と技の一致する修行が進めば、最後には心も技も忘れてしまうこと。)」。もう理だとか、こんなものくだくだしたものみんな忘れちゃえ。忘れているけれども内容には含まれている。頭の中空っぽ。ね、これが最初話した剣の理法の自然というところがこれ(事理相忘)です。自然というものは、何も考えちゃいやしない。考えてはいないけれども、春夏秋冬とぐるぐる回る。四年目にいっぺん閏年がある。ね、朝は鶏が鳴く。これが自然ね。お互いに相寄り、相助けて、そしてやっていく。ね、これが人間の理想の社会なん。ね、・・・・「修錬の心構え」でね、「以って国家社会を愛して、広く人類の平和繁栄に寄与せんとするものである」と書いてあるけど、書きゃあ書けるけどね、これはこういうところへ(事理相忘)いかなきゃ出来やしない。ね、そうすればなんか・・・。ここを本当に鍛えておかないで、この第一関門を鍛えておかないで、もう全部でちゃう、ね、よーく第一関門を鍛えてね。俺が俺がというものを超越するまで、ね、ここを鍛えておくからこうこう、最後に・・・これは理想社会です。

16 人間形成について
 これを人間形成というのを二つに分けて、「個人形成」ともう一つは「社会形成」、こっちは社会形成で、こういう理論を聴いて、知ってね、そうしてやるん。知らなきゃだめ。知らなきゃ、あっ、こんなに俺は日本一、そんな馬鹿にされる。人にね、皆んなと仲良くする。ね、
 剣道には針谷夕雲(はりがやせきうん)と、これがいいですね。
【注釈】はりがや せきうん、生年不詳 - 1669年(寛文9年))は、日本の江戸時代初期の兵法家、剣客。無住心剣流剣術の開祖。「相抜け」とは夕雲が用いた剣術用語で、「無住心剣」による立ち合いの理想を説いたものとされる。双方が傷を負う相打ちとは異なり、相抜けは互いに空を打たせて、無傷の分かれとなる。むしろ高い境地に至った者同士であれば、互いに剣を交える前に相手の力量を感じ取り、戦わずして剣を納める、というものである。針谷夕雲は「相抜け」を以って剣の極意とし、平素工夫もせず鍛錬も怠り、ただ自分だけ勝とう勝とうとあせるのは畜生心であり、その剣を畜生剣としていやしんだ。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
俺は仏教を修行している。ね、その眼(針谷夕雲)から見ると、(自分が学んだ新陰流の流祖たる)上泉伊勢守でも柳生但馬守でも自分の師匠の小笠原玄信斎のあんな剣術は畜生剣術だ。これはちょっと言い過ぎるけどね、畜生剣術じゃない「程度が浅い」ということです。ね、俺の剣道は合掌だというん。ここまできちゃね。相手を拝む、ね、いい弟子(小田切一雲など)が出来ると香を焚(た)いて拝んだ。これが剣道の理想であり、これが大自然界がこういうふうに出来ている。ね、この「理(り)」と「事(じ)」の関係を良く知って、ね、そうして途中で慢心しないように、また、途中で修行を止めないようにやっていくのが、剣の理法の修行なん。ね、ほいで、今、面倒だからちょっと丁寧にやって時間を食っちゃったからね、もう少しやっていきましょう。

17 三磨の位(さんまのくらい)について
 これを修錬する。聞いただけではいけない。修錬する。ね、「修錬」という言葉は、石田先生が入れた。ね、どう修錬するか。ね、これを柳生流では極意と言っている。
 三磨の位(さんまのくらい)(さんまのくらい)と言っている。
三磨の位

これを修錬だよ。柳生流でこれを秘密にしてあって、これを抜いてある。三磨の位、これは習うということ・・・。師匠につ く、工夫する、ということは、自分で考える。考えたら鍛錬する。それから錬ること、稽古すること、この三つで磨いて、この三つのうちの一つ欠けても、ものにはならない。これを三磨の位、ね、皆さんが稽古をやるときもよーく、三磨の位、「習う」「工夫」「鍛錬」する。ね、これによって、自分をズーッと錬っていく。三磨の位ね、自分にどっか欠けているもんがあるんじゃないかと考えてみて、これに当てはめてみる。三磨の位、ね、そしてね、これでいけば必ず「百錬自得」こういうことなん。人に教わらなくても、ここだという自分の・・・・・ここにぶつかる。百錬自得ですよ。人から剣道は教わるものじゃないん。自得するん。話だって教える話なんかないですよ。ただそういう話をすることによって皆さんが持っている力を引き出すということ。持っていること、持っているぞということを指し示すだけなん。教える所なんかありません。ね、百錬自得。

18 社会形成について
そうして、後は人間形成の道である。ね、「人間形成」というのは、私が、その言葉は私が出したんですが、最初は「人間社会形成」と作ったんですよ。なぜ、「社会」を入れたかというと、剣道は相対立してやるもんですから、どうしても自分が主になっちゃう。で、剣道はここで止まちゃうんです。「事理一致」という所でね。それだから、社会形成、ここをやる。社会形成。ところがまあ、それを含ませておこうということで「社会」を取って「人間形成」としてあるんですが、ね、人間形成の上で剣道をやる者は社会形成というところへ頭をおいてやらないと、途中でつかえます。私なんか警視庁あたりに皆んな若そう良さそうな者には一生懸命になっている。剣道、努力するのはいいけどね。自分が上手になろうと思ってやっちゃだめだよ。ね、警視庁に勤めている者は、警視庁のために修行する。そうすると、社会、警視庁のためにやる。ね、やることは同じなんですよ。考え方が警視庁のためにやる。そういうふうに話しておるんですが、この「社会形成」ということが非常に大事なん。これはうっかりすると、それがないばっかりで変になっちゃう。ね、
 一刀流の元祖は伊藤一刀斎、あの技は大したもんですよ。一刀流の。それまで行ってもいい師匠に逢わなかったんでしょうね。社会形成ということに気がつかない。ただ勝てばいい。勝てばいい、勝つところの太刀だけやった。最後はこれ以上は仏教を修行する。山へ入って行くところを知らない。ね、そうなる。これが剣道の欠点ですよ。ね、あれまでの人でもそうなん。それから一刀流では、伊藤一刀斎の生まれが、あれができた。それが山岡鉄舟、ね、山岡鉄舟は、「事理一致(じりいっち)」、「事理相忘(じりそうぼう)」のところがいい。ね、これが本当の剣道ですから、剣道をやる者はね「社会形成」というもの、初段の者は初段でもいいから初段は社会と結びついて。ね、五段の者は五段でこれと結びついて、ズーッと、やることが、ね、人間形成という道につくんであります。この点を特に、私は剣道をやる者に対してはご注意してある。

19 猫の妙術について
 それから最後に「道」でありますが、今はいろいろ考えをする者があって、全剣連(の一部)あたりがね、剣道は哲学だと言うんですよ。ね、道じゃないん。道だと言うと、その中に禅も入ってくるわ、何も入りいろいろなものが入ってくる。哲学だと、だから、そういう論文を出した者は、それだけで範士号を出す価値があるという。ね、まあそういう考え方もあるかもしれませんがね。哲学というのは、一科の学問、ね、ところが剣道は哲学じゃないん。道なん。その一番はっきりした文献が「不動智神妙録」。これ以上の本はありません。剣道で不動智神妙録、これは仏教から来ている。「猫の妙術」、これがいい。
【注釈1】『猫の妙術』はあまりにも有名な話なのでその内容を詳しく述べることは省くが、あらすじは、先ず一匹の大鼠(ねずみ)がいる。そしてこの鼠(ねずみ)をつかまえる猫がなかなかいない。最初の猫は技が早いだけで失敗する。二番目の猫は気勢はあるが、死を覚悟した鼠にはかなわない。三番目の猫はそれまでの二匹よりは上手で、心の和でやってみた。ところが自己の思慮分別から出た「和」だから、これも失敗。それで結局、鼠をつかまえたのは、大したこともないと思われた一匹の古猫であった。
 さてこの古猫は、鼠(ねずみ)をつかまえることができなかった三匹の猫の力を否定はしないで、それぞれの段階を認めている。ただ古猫が三匹と違うのは「無心」で行なったこと。この無心とは捨身である。これは孟子の言う「浩然の気」。しかし古猫は「自分よりもっと上の猫がいる」と言う。
 それはかつて古猫の隣り村にいて、サッパリ気勢が上がらず、朝から晩まで居眠りしているような猫である。これは本当に己れを忘れた猫。「大丈夫天に先立って心の祖となる」という禅語があるが、初めの「心」が古猫で、終りの「祖」というのがこの眠り猫の境涯である。(「小川忠太郎範士 剣道講話」より)
【注釈2】【 第六 猫の妙術について
 猫の妙術の原文と口語文をお配りしました。これはいくつかある剣道修錬の兵法書の中で、その修錬の段階と具体的な事柄が、猫が鼠(ねずみ)を捕る術になぞられて書いてあるので、皆さんが後輩を指導なされるときの例え話として用いるとよいかと思って差し上げました。簡単に説明しますと、「黒猫」「虎毛の大猫」「灰色の壮猫」「無類逸物(むるいいちもつ)(飛び抜けて優れていて比べるものがない)の古猫」「眠り猫」と五匹の猫がでてきます。これは剣の進歩に応じています。
 まず、黒猫は幼少の頃から鼠(ねずみ)捕りの技の修錬に邁進(まいしん)し、いかなる鼠も捕れなかったことはない、桁梁(けたはり)を走る鼠でも不意に起きて跳びかかり捕り損じたことはなかった。しかるにこの鼠(古猫が捕えた鼠)は捕り損じた、何故か、と古猫に尋ねるのです。そうすると古猫は、お前のは所作(技)のみで、そこに拘(こだ)わっている。所作というものは道筋を知らしめるためのものである。所作には至理(しり)がある。そのことを蔑(ないがしろ)ろにして所作の工夫のみ走るのは小人の功を極(きわめ)る才覚とするもので、却(かえ)って害があるのだ、と教えた。
 次に虎毛の大猫が、自分は気を練ってきてその気、豁達至強(かったつしきょう)にして天地に充(みつ)るが如し、敵を脚下に踏み、まず勝って然(そう)して進む。鼠(ねずみ)の声に隨いその響に応じて鼠を左右に睨み、その変に応じ得なかったことはない。所作はそれを用いようとする心が無くとも、所作は自ら湧き出てくる。だから桁梁(けたはり)を走る鼠を睨(にら)み落せた。しかるに今日の鼠は形なく行くに跡も見せない。どうして捕れなかったのか、と古猫に尋ねた。
 古猫は、お前の修錬するところは、気の勢に乗って働くにすぎな気に対して敵がこちらの気を破らんとの気の勢をもってきたらどうするのか。お前の気は浩然の気に似せてはいるか異っている。長江黄河の常流と一夜の洪水の勢い位の差がある。窮鼠却(きゅうそかえ)って猫を噛むことあり。お前は生死を忘れ欲を忘れ勝負を忘れ心身を全うする心がないから、その志(こころざし)金鉄の如き鼠に対して、お前のいう気勢の如きもので服従させることはできない、と教えている。
 次に灰色の少し年取った猫が出てきて、私は心を練ること久しく、勢(いきおい)をなさず物と争わず、相和して誤らず、鼠が強い時は和して鼠に添う。私の術は幕をもって礫(つぶて)を受けるようなもので、どんな強鼠(きょうそ)でも私に敵対することはなかった。ところが今日の鼠(ねずみ)は、勢いにも屈せず私にも応ぜず、その挙措神(きょそかみ)の如きもので今迄こんな鼠は見たことがない。何故かと古猫に尋ねた。古猫は、お前の和といっているのは、造った和であって自然の和ではない。まだまだ惰気(だき)がある。無念無想ではない。無思無為にして感に随(したが)って動く時は、我に象がない。そうなったときに、天下の和に敵するものはないと教えた。そして、古猫は、しかしながら、所作、気、和の修錬は無用ではない。いや必要なのである。その至極は、それに囚(とら)われないことであり、拘(かか)わらないことである。この至極の猫が、眠り猫である。その老猫は、終日眠っていて気勢なく木で作った猫のようであった。その猫が鼠(ねずみ)を捕ったのを見たものはいない。しかしその老猫の周辺には鼠はいない。その老猫行く処(ところ)には鼠がいなくなる。これを神武にして殺さずという。私はこの老猫にまだまだ及ばない、と教えた。この古猫は、黒猫、虎毛の大猫、灰色の壮猫が捕りそこねた強鼠(きょうそ)が蟠居(ばんきょ)している部屋に、これらの猫らに懇願されてのそのそと入ったところ、その鼠は忽(たちまち)すくんで動かなくなってしまった。それにのそのそと近づき、なんなく捕えた猫であった。
 現在に比べると、黒猫が六段、虎毛の大猫が七段、灰色の壮猫が八段、古猫、老猫はその上と位づけできるでしょう。剣道は奥の深いものだと思います。:「剣窓スペシャル」(剣の理法による修錬:石丸俊彦)より」】

これがいい。これは老荘思想から来ている。
【注釈】老荘思想(ろうそうしそう)は中国で生まれた思想。道家の大家である老子と荘子を合わせてこう呼ぶ。老荘思想が最上の物とするのは「道」である。道は天と同義で使われる場合もあり、また天よりも上位にあるものとして使われる場合もある。(「ウィキペディア(フリー百科事典)」より)
この二冊がいい。ね、「五輪の書」(宮本武蔵の著した兵法書:「地・水・火・風・空」の五巻に分かれる。)は技から、少しレベルが低い、最高の不動智神妙録は禅ですよ。これはね、禅は何ですか、これは道ですよ。ね、ほいで剣道というものは道なん。

20 「道」の定義について
 それで最後にね、道の定義を「天命之(てんめいこれ)を性と謂(せいとい)い、性に率(したが)う之(これ)を道と謂(い)う」。
【注釈】(てんめいこれをせいといい、せいにしたがうこれをみちという)」(訳:人間は人間性のままにやっていくことが人間の道である。・・・・という意味。性(せい)とは、生まれながらに持っている心のこと。セックスの意味ではない。)
これは「中庸(ちゅうよう)」のまっ始(ぱじ)めに書いてある。「中庸」という本は、あれはね非常に程度が深い、中国であの(戦国)時代にね、南方から老荘思想が入ってくる。仏教が来る。そいで儒教(じゅきょう)が対抗できなくなってくる。ほいで、学者が全部集まって高い、それに対抗するために作ったのが「中庸」なん。だから、これはいいですよ。ね、
 「道」の本体は天命。ね、天命、この天命というのは、大自然の生命力という。ね、大自然を動かしている。ね、我々の生命力、これ天命ね。生命力は眼には見えない。これが現れて眼に見えるようになったのが、これを性(せい)という。この性(せい)にはいろいろあるん。現れたものには、山には山の性(せい)がある。山はそびえていればいい。川には川の性(せい)がある。川は流れていりゃいい。ね、人間には人間の性(せい)がある。だから人間は、この厳然とした人ばかりおるんだから、又、だらだらしておってもだめなん。人間には人間の性(せい)がある。ね、じゃあ人間何ゆってん。人間は当たり前のことを当たり前にやっていきゃいい。これが人間の性(せい)でしょ。ね、人間の性(せい)に率(したが)う。これを道という。これが道。当たり前のことを当たり前にやっていく。ね、それを「平常心是道(へいじょうしんこれどう)」これが、いいですよ。ね、なんともない平常心是道ね、人間形成の道と言ったってそれ以外にありゃしない。ね、その定義が「天命之(これ)を性(せい)と謂(い)い、性(せい)に率(したが)う之(これ)を道と謂(い)う。」これが道の定義だ。ね、
【注釈】(人間は、人間性に率(したが)っていくのが道、この道を得るためには、三磨の位(良き師に習う、創意工夫する、日々鍛錬する)この繰り返しによって修行することが大事であることを言っています。)
まあそれで、以上で、ざっとで、全剣連の「剣の理法の修錬による人間形成の道である」で、これはまあ終わらしてもらいますが。

21 日常生活における三箇条について
 最後にね、我々の日常生活として、皆さん方が後輩・青少年に教えるのにも大事なこの事(わざ)(わざ=技)があるから。ね、これを一つ最後に御紹介しておきます。今でも、勝海舟というと残っていますよ。この人は偉い人ですね。西郷さんの(ような)錦の旗を背後に背負っているんじゃないん。ね、幕府方ですから、それであれだけのことをやったん。この西郷、勝海舟が事(わざ)(わざ=技)をなす上についての心構えを残していますからね。それをご紹介して、ここの項目のところ。技は今、さっき申し上げました。「応無所住而生其心(おうむしょじゅうにしょうごしん)」でいいんですけどね。それを、又、別の面から言って、
 (・・黒板に勝海舟の座右銘を書いている。・・)
 エーッ、技、ことの未(いま)だならざる小心翼々(しょうしんよくよく)、
【注釈】西郷隆盛と江戸城明け渡しの話をした勝海舟の『語録』の中に、次のような言葉があります。「こと未(いま)だ成(な)らず 小心翼々(しょうしんよくよく) こと将(まさ)にならんとす 大胆不敵(だいたんふてき) こと巳(すで)になる 油断大敵(ゆだんたいてき)」(訳:準備は至る処にこころを配り、一旦決定したら大胆不適に決行し、終わったら油断しない・・・・という意味です。)
人間はこのその前がありますね。その前ね、その時は小心翼々ね。計画を縦から考え、横からも考え、ね、結果の最悪の場合も考え、あらゆる状況を考えて抜いておく、これがないと、小心、ね、剣道なら打ち間を、ただ遠くから飛んでいくもんがいる。打ち間をつくるまでの間のように、ね、それまでは大変。だからそこは、ただ打ちたがらないで、「敵をただ打つと思うな身を守れ、後は自ずから洩る賤(しず)が家(や)の月」、
【注釈】伊藤一刀齋の歌とも言われている:我は打たず、突かずとも、自然と賎(しず)が屋(粗末な家)に月の光が漏れるように、敵の方からおのずと打突の隙を見せるものだ。また、心中に勇気が満ち、わが身を守っておれば、敵は焦(あせ)って攻めこんでくる。そのとき、おのずから体勢が崩れ、隙が出る。そこを打てという、後の先の極意を説く歌である。これを又、「露の位」ともいう。草葉の朝露がわずかに触れるものあらば、忽ち(たちまち)地に落ちるという意味。(「高野佐三郎剣道遺稿集」より)
この心構えがないと、失敗をする。ね、一本の技でもそう。ね、一生涯での計画でも最後までのことを考える。簡単な言葉で言えば、段取り。これが大事ですね、段取りができたら、どうするか、ことのまさにならんとす、大胆不敵ね、段取りが出来たらね、実行。剣道ならね、それで打ち間が出来たら逃さない。打ち間が出来てぐずぐずしていない。ね、打ち間が出来たら逃さない。ところがそのね、段取りのいい人が臆(おく)(気おくれしておそれる。)するん。大胆不敵。ね、それから、そこで技が成功する。ね、成功したらば、ことのすべになく、気を抜かない。油断大敵。終わったところで油断しない。これが三箇条ですね。
 これが段取りなら、これは真剣、これは真剣。これは締め括(しめっくく)り、ね、何かやったら最後は締め括(しめっくく)り。ね、簡単な言葉で「段取り・真剣・締め括り」、この三つができたら、完全な人ですけども、これは理想でありましてね。この三つはできません。出来ないけれども、自分の性格から当てはめて、自分はどこに欠陥があるかなと思って、その自分の欠陥を補っていく。これは修行だね。これは大事なことですよ。一日の計画だって、この ・・・一年だってそうだ。ね、一生だってそうだ。それで、これをやって初めてだね。最後にやれれば「我、事において後悔なし」ということ。ここに欠け目があれば、・・・・ね、それを勝海舟が、自分の座右銘(ざゆうめい)として常にもって後進に教えている。ね、
【注釈】勝海舟の座右銘:事之未成 小心翼々(ことの いまだならざる しょうしんよくよく)事之将成 大胆不敵(ことのまさにならんとす だいたんふてき)事之已成 油断大敵(ことのすでになる ゆだんたいてき)として常に、剣道のところで「打つ前は小心翼々。臆病なくらい慎重に打っていく機会を求める。打つときは大胆不敵。後先考えず、打つことに集中する。打った後は油断大敵。残心で、相手の攻撃に備える。・・・・という意味
勝海舟の座右銘。剣道の技のところで、これを剣道ばかりでなく、人事百般(じんじひゃっぱん)(人としてなすべき、すべてのこと。)、これでありますから、付け加えておきます。
以上で、今日は全剣連の剣道指導理念の話を終わらせてもらいますが、ご静聴をどうもありがとうございました。 (拍手)  


(了)

┌──────────────────────┐
 この講話録は、午後1時34分から3時20分
にかけて講話された口述(録音)を、そのまま
 忠実に記録したものです。(2010.3.31)
└──────────────────────┘

   噫(ああ) 小川忠太郎先生 
警視庁名誉師範 森島健男

全日本剣道連盟相談役
警視庁剣道名誉師範 小川忠太郎先生には、平成四年一月二十九日午前十一時五十五分、
心不全のため、ご自宅に於いて逝去された。享年九十一歳であった。

  我が胸に    
     剣道理念抱きしめて
  死に行く今日ぞ
 楽しかりける

 右は死の一週間前に詠(よ)まれた辞世(じせい)である。
 無得院釈貫道刀耕居士という。


 葬儀は故人の遺言によって、家族だけで極めて質素なうちにも厳粛に執り行われた。
 先生の生涯は辞世に示されている如く、剣道理念の実践とその普及に尽きるものであった。
 剣道講習会等に於ける講話は、先生の永年に亘(わた)る剣と禅の厳しい修行によって体得された珠玉(しゅぎょく)の言葉であってみれば、受講者に深い感銘を与えたものであった。
 昭和十五年四月、私は國士舘専門学校に入学し、卒業迄の四年間、主任教授としての先生に、直接御指導を頂いた。
 先生は国士舘以外の掛け持ちは一切なさらず、学生の教育指導に専念されたのである。
 その主義は、昭和二十八年警視庁師範に就任されてからも変わることなく、只々(ただただ)警察剣道発展のために心血を注がれた。
 昭和三十年、私が剣道教師に就任の際、”これからは一人になっても淋しくない修行をしろ”と言われた。禅の公案をもらったようで、その意味がなかなか理解出来ず、それが「肩書を頼りにするな!! 名利を求めるな!!」という教訓であることが解(わか)るまでに数年かかったことを覚えている。
 先生の生涯は名利とは全く無縁の、清貧に甘んじた修行々々の一生であった。”清貧の士君子”そのままの生涯であった。
 月一回の全剣連合同稽古にはほとんど出席されて、後進を指導された。地下鉄九段下の百三段の階段を数時間もかけて、一段一段踏みしめるようにして登られる御姿が脳裏から、離れない。昨年九月の合同稽古が、先生の最後の稽古になって了(しま)った。


  小川先生の慈顔今はなし 噫
  心から御冥福を祈るのみ


あとがき
 平成21年12月の原稿再発見からテープ起こしと再編集には、約3か月を要しましたが、お陰で昭和57年当時のテープ起こしの内容に比べ、解りやすくなり、自身の理解も一層深めることができました。
 大先生の講話に、小生が注釈(人物紹介、仏教用語、漢文、道歌、時代背景など)を加えるなど、失礼千万であることとは言え、この貴重な講話を理解して頂けなければ「馬の耳に念仏」になりかねません。
 そこで、僭越(せんえつ)ながら、( )書きや【注釈】を付け加えさせて頂きました。
 今回、このような講話録を発行することができたのは、元原稿とカセットテープを保管していたことから始まり、昭和56年以降に、剣道や講話に関係する書籍の発行があったこと、情報通信技術(インターネット検索、パソコン・ワープロなど)や情報公開の普及進展により情報収集や文書作成がしやすくなったことなど、すべての巡り合わせがあったからこそ実現できたものと考えております。
我以外皆我師(われいがいみなわがし)

小川先生 感動ありがとうございました
御冥福をお祈りいたします・・・・合唱

【参考にした書籍等】
・沢庵 不動智神妙録 池田 諭訳 徳間書店
・剣心一致 -島田虎之助伝- 小澤親光 住宅新報社
・武道秘伝書 吉田 豊編 徳間書店
・山岡鉄舟 剣禅話 徳間書店
・日本の剣豪 四 奈良本辰也他 (株)旺文社 
・剣と禅 大森曹玄 春秋社
・宮本武蔵 五輪書 神子 侃訳 徳間書店
・一刀流極意 笹森順造 「一刀流極意」刊行会 (昭和40年11月刊)
・小川忠太郎先生講話録 剣道養心館創立十周年記念誌 (昭和56年3月刊)
・小川忠太郎範士 剣道講話 全三巻 体育とスポーツ出版社(平成5年5月刊)
・剣道の歴史(財)全日本剣道連盟 (平成15年1月刊)
・五十年史 (財)全日本剣道連盟 (平成15年5月刊)
・百回稽古 小川忠太郎著 体育とスポーツ出版社(平成12年7月刊)
・修道学院の青春 堂本昭彦著 スキージャーナル(株)(昭和60年12月刊)
・高野佐三郎剣道遺稿集  堂本昭彦著 スキージャーナル(株)(平成19年5月刊)
・剣窓スペシャル「剣禅一如 沢庵「不動智神妙録」を読む」佐藤錬太郎、「剣の理法による修錬」石丸俊彦、他(財)全日本剣道連盟 (平成15年5月刊)
・月刊「剣窓」-心の修行と現代剣道-森島健男 平成20年2月号(財)全日本剣道連盟
・月刊「剣道時代」1889.8(山岡鉄舟の剣と禅)、1992.4(小川忠太郎範士を偲ぶ)、1998.3(禅とこころに学ぶ)、2000.10(小川忠太郎の世界)、2008.2(剣道再生への道)他 体育とスポーツ出版社
・ウィキペディア(Wikipedia)(フリー百科事典)
・Yahoo!百科事典 




編集発行者の紹介

        
所  属
神奈川県剣道連盟
横浜市剣道連盟
戸塚区剣道連盟副会長
農林水産省剣友会師範
ドリーム剣友会会長(師範)
公文国際学園剣道部コーチ

出身:新潟県中魚沼郡津南町
生年:昭和21(1946)年12月
趣味:剣道、囲碁、釣り、ホームページ ↓
http://www.justmystage.com/home/kineharu349/index.html
   「戸塚区剣道連盟副会長のホームページ(そのⅡ)」
著書:「私と剣道指導」、「剣心とは何か」、「剣道審判員手帳」
剣歴:昭和37年(高校1年)から剣道を始める。
昭和48年から青少年に剣道指導する(27歳~現在)。
平成4年5月剣道七段授与(45歳)、
平成5年5月教士称号授与
住所:横浜市戸塚区原宿3-21-6
メール:59kineharu_kendo@ktd.biglobe.ne.jp
電話:045-851-0475


剣道範士九段 小川忠太郎先生
剣道講話
剣道の理念について
編集発行者:小島(こじま)甲子治(きねはる)
発行年月日:平成22(2010)年4月25日
発行部数:300部